残念ながら人は日々生き続けているようでいて心の何処かで退屈な日常に棲む己の死を願っている。そして人は何故か唐突に身体は無事なのに精神だけ死ぬときがある。それは人のいう"肉体の死"ではなく比喩するのなら"死"という得てして曖昧なものであるが、人はその死には抗えず肉体から精神のみ旅立ち、そしてまた、いつの間にかその精神は蘇っている。しかし人は
それに気づかない。気づいても
憂鬱という地を這う様に天を浮遊するおぞましいものに苛まれるからだ。
「シカマル、今日は任務はないんだ?」
「あぁ、ねぇよ。」
僕がその精神のみの"死"に気づいたのは、ほんの小さなきっかけだった。
「じゃあ明日は一緒にいられるなー。僕も任務ないよ。」
「そーかよ、そりゃありがてーな。」
・・・!!これだ!今僕は死んだ。
見事に脳に痛烈なショックを受けて、コンマ数秒の世界で精神は死という状況を受け入れた。
そして、次の返事をする頃には死んだ余韻を残しながらもちゃんとこたえる。
「そーだな、僕も嬉しい・・・。」
つまり!
死だなんだと言っておきながら、これは暗い話の死ではなく、いわゆる"きゅん死"。
わからない人の為にちゃんと説明するが、"きゅん死"とは胸きゅんにより脳天を衝撃が走り殺害されたような錯覚を起こす、一種の妄想。
シカマルというバカヤローは日々僕を殺戮しているのだ。
無自覚に無意識にまさに無我の境地ではあるが、まさしく僕はシカマルにより殺されているんだ。
しかも、こいつ一日1回どころか何回も僕を殺す。
「そーいやお前、もうそろそろ誕生日だっけか?」
・・・!!お、覚えてたのか・・・地味に嬉しい。死んだかな・・・。
「うん、そーだな・・・それが?」
「いや、祝ってやろーかと思ってよー。まぁ、お前はオレにとって大切だからな、一応。」
・・・!!!この、天然バカヤローが!!殺戮マシーンと言っても過言ではない!
大切だってよ!僕が!!嬉しいなこのやろう・・・。
という風に、僕は毎日毎日、止め処なく溢れるシカマルへの"胸きゅん"を勝手に死とか言って、
むしろいたい極地へと・・・強いて言えば存在意義、人としての死へと自分を追いやる。
つまり妄想がいたい僕、死ねばいいのにって話。
僕は毎日死をむかえ続ける
(愛の言葉を囁かれた日には四肢がバラバラになるかもしれない)